広坂振興会

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広坂に、金沢の歴史と伝統文化、そして世界に通じる現代の風を感じる。

広坂振興会

江戸時代、加賀百万石の城下町として栄えた金沢。
その中心にある金沢城・兼六園のほど近く、広坂は発展を遂げてきました。
今でも広坂には、歴史ある文化遺産が数多く残され、金沢の文化、商業、政治の中心街となっています。


 たとえば、広坂遺跡。平成8年〜平成12年、そして平成14年に発掘・調査されたこの遺跡は、弥生時代〜江戸時代にわたる歴史をいまに伝えています。
まず、最初に発見されたのは、奈良・平安時代の文化財。寺院の屋根を葺いた瓦、寺域を区画する柵列、付属施設の掘立柱建物・竪穴建物などが発見された事から、寺院を建立しうる有力豪族(または道君)が、昔からこの地に存在していたと推測されています。
また、鎌倉室町時代には、複数の堀に囲まれた区画内に、掘立柱建物・礎石建物が発見され、五輪塔や宝篋印塔などの宗教遺物も出土した事から、館や寺院があったことが考えられています。

 江戸時代には武家屋敷地とされ、数百〜一万石の禄高をもつ武家層が居住していた広坂には、南側に築かれた西外惣構堀の城側に土居と道路があり、その北側に武家屋敷が広がっていました。当時の金沢城には、その東西を囲むために、内と外の二重の外堀・惣構堀、つまり土塁と堀による防壁がありました。
それは、巨大な城下を守る外郭としてだけでなく、都市計画の基本ラインとして、現在の金沢の都市形成に欠く事の出来ない歴史構造物となっており、いまでも広坂で、その一部を確認することができます。 

 その後、明治維新を経て、金沢藩が金沢県となった後、七尾県が切り離されて石川県となりました。もともと金沢にあった県庁は、北に片寄るのを避けるため美川町に移されました。
その間、たった一年でしたが、街はひどくさびれ、金沢の人口は12万人から9万人に減ったといいます。
明治6年、金沢に復帰した県庁は、広坂通りに建てられ、北陸三県を合わせた大石川県の中心となり、現在の県域に定まりました。その広坂庁舎(旧石川県庁舎)は、国会議事堂を設計した工学博士、矢橋賢吉の設計によるもので、大正13年に建設完成しました。
庁舎正面玄関の両脇には、立派な二本の大木(天然記念物)があり、樹齢はおよそ四百年。前田利家が京都の三十三間堂を模してここに堂形の的場を作ったことから、『堂形のシイノキ』と呼ばれています。
その後、約80年余りもの間親しまれてきた石川県庁は、新庁舎の完成と共に、平成14年鞍月に移転し、現在でも金沢市中心部のランドマークとして市民に親しまれています。

 また、この通りには、明治20年、金沢の希望の星・第四高等中学校(のち第四高等学校、略して四高)が設立されました。
第四高等中学校は、一高東京、二高仙台、三高京都、五高熊本とならぶナンバースクール。
昭和25年に金沢大学に受け継がれ、閉校となるまで約60年間、一万二千人以上のエリートを、日本の政財界から文化学問の方面まで各界に送り出してきました。
当時、四高生は被帽・高下駄のバンカラで、マントをなびかせて広坂通りを闊歩し、市民に心から愛されていたそうです。
その後、明治38年に女学校(のちの県立第二高等女学校)が開校し、石川女子師範学校、附属小中学校なども加わり、この通りは若々しい学生生徒の活気にあふれることとなりました。
現在、四高の赤レンガ校舎(重文)は石川近代文学館になり、金沢大学附属小中学校は平和町へ移転しています。

 明治22年には、金沢が市となり、市役所がこの地に建設されました。大正11年に改築完成した新庁舎は、ルネッサンス式赤レンガ半石造りの美しい建物でしたが、昭和56年の新庁舎完成の際に、惜しまれながら姿を消しました。
旧四高の地は、加賀騒動で有名な大槻伝蔵のものだそうで、今では街中のオアシス、中央公園となっています。

そして現在、広坂の中心となったのが、平成16年10月に開館した「金沢二十一世紀美術館」。
新しい文化の創造と新たな街の賑わいの創出を目的に設立されたこの美術館には、四方向に入り口があり、表裏がありません。
ミュージアムと街の共生を目指す、全館ガラス張りの壁に覆われた新たな街の広場として、教育・創造・エンターテインメント・コミュニケーションを活性化し、新しい広坂の魅力を創出しています。

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